衝撃的なニュースが私に届けられたのは1957年4月の初め、私のスキー仲間だった西鉄航空の賀田四郎さんからだった。「エッそれは凄い。すぐに野崎さんに連絡しよう」。私たちは興奮していた。賀田さんは旅行エージェントの若い社員、毎日日本に入ってくる航空便の乗客名簿を点検するのが仕事だった。その彼が、当時世界一周便を運航していたパンナムの乗客名簿の中に、トニー・ザイラー、ヨセフ・リーダーの名前を発見したのだ。よほどのスキーファンでなければトニーの正確な名前、そしてヨセフ・リーダーの名前に気付くはずはなかった。大のスキーファンであり、イギリスの航空会社BOACの東京支店長であった、ウイリアム・クラークさんのスキーグループのメンバーでなければ、この大ニュースの発見はなかったはずである。

コルチナ・オリンピック三冠王のトニー・ザイラー
志賀さんの写真集「アルペン競技」より |
◆ザイラーに日本の雪の上で滑ってもらおう
野崎彊(ツヨシ)さんは当時朝日新聞社の運動部次長で、全日本スキー連盟の理事、日本のアルペン競技界でオリンピック強化本部長を努めていた。
野崎さんと私はその前日まで、志賀高原でのオリンピック強化合宿に参加していて帰京したばかりだった。野崎さんは「ザイラーに日本の雪の上で滑ってもらおう」と語り、強化合宿に参加していたメンバーを呼び戻そうということになった。
その当時のあらゆる通信手段を駆使してそのニュースは日本選手たちに伝えられた。その時既に青函連絡船に乗っていた金丸睦郎君を除いて全ての選手が東京へ戻ってきた。野崎さんは、オーストリア大使館に連絡をとり、スキー界の重鎮でありオーストリアスキーに詳しい麻生武治さんと語り合って、羽田空港で2人の説得に当たることを決めていた。
羽田空港で私たちの迎えを受けた2人はかなり戸惑った反応を見せた。「日本でスキーができるとは考えてもみなかった」。それが2人の答えであった。野崎さん、麻生さんの「日本で滑って欲しい」という要請に、2人は「もうスキー用具の全てをアメリカから直接オーストリアに送り返してしまって私たちは何も持っていない」と答えた。

野崎彊さん
スキーコンプに掲載された写真より
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◆1日で用具を全て用意する
「その用具の全てを明日中に準備する」という野崎さんの言葉に、2人のスーパースキーヤーは同意した。すさまじい一夜があった。スキー用具のもっとも重要な用具は、スキー靴である。野崎さんは、その当時日本で最も優れたスキー靴メーカーの千住の森戸さんに電話をかけ、一晩で2人の履くスキー靴の製作を依頼した。当時のスキー靴は約2週間を要する作業であった。森戸さんは2人の足の採寸をして、次の日の昼間にはホテルの彼らのもとに新しいスキー靴を届けた。
スキーは、私が持っていたスタイン・エリクセンの2米10センチのGSと銀座好日山荘の海野治良さんが持っていた、前年日本に来て妙技を披露した、アンリ・オレーの残していったロシニョールの2米05センチのSLスキーが用意された。
2人は、その用具に満足し、日本で滑ることを承諾した。そして日本チームが集まった水上温泉にやって来た。これ程見事なチームワークを発揮したケースは未だにないと言っていい。
「日本の櫻を見て帰れ」というアメリカの大富豪C・V・スターさんの言葉にさそわれて日本に立ち寄った2人のスーパースターは思いがけない日本でのスキーに応ずることになった。
◆陸運局にかけ合ってリフトの運転の許可をとった
日本のスキー場のほとんどがスキーの営業を終えていた。石打スキー場の鈴木正彦さんが陸運局にかけ合って、たった一日のリフトの運転の許可をとった。
水上温泉に集合した日本のトップレーサーたちは、興奮していた。北海道の佐藤清さんが浴室から帰って来て報告した。「すげーよ。確かに世界一になる男は違うよ」と、トニーのオチンチンの大きさを伝えたのである。
◆2人の滑りに日本人は全く歯が立たなかった
次の日、石打の残雪に塩がまかれ、2人のスーパースターとの合宿が始まった。その当時の日本のトップレーサー、杉山進、藤島幸造、園部勝、多田修らが果敢な挑戦をしていた。しかし、世界のトップと日本のトップとの差はあまりに大きかった。
2人の滑りは日本人に全く歯の立つ相手ではなかった。日本選手が滑るスラロームコースを何秒かおくれて2人が滑る。そのコースの間で、彼らは日本選手を追い越していった。日本選手たちは挑戦をあきらめた。全てが滑ることをやめて見学者となった。
世界のトップと日本のトップとの差は歴然であった。30秒程度のコースで3秒、5秒と離されていたのである。
前の年1956年コルチナオリンピックで三冠王になったトニー・ザイラーは、スラローム2位となった猪谷千春に4秒もの大差をつけているのである。

1958年12月10日 毎日グラフより
この毎日グラフのトニーの滑りの分解は、原稿の中に出てくる、1957年春の突然の来日で、石打で滑った時のもの。
日本におけるトニーの滑りの写真はこの日のものしかない、 |

志賀さんが石打でのトニーの滑りを撮った13枚の連続写真 |
◆彼らはこの滞在で完全に日本贔屓となった
偶然に日本に立ち寄り、日本のスキーヤーたちに妙技を披露してくれた世界一のアルペンレーサーはわずか1日の滞在で爽やかな好青年のイメージを植え付け、日比谷公園の満開の櫻を愛でて帰国した。彼らはこの短い日本での滞在で完全に日本贔屓になり、何とトニー・ザイラーはそれから毎年春には日本を訪れ、日本の雪に見事なシュプールを残している。
しかし、日本のスキー界の反応は、不可解なものであった。SAJは全ての選手にトニー・ザイラーとの接触を禁じたのである。その理由は、トニーはアマチュア選手とは認められない、と言うもの。当時世界ではスポーツ選手のアマ、プロ問題にゆれていた。
JOCとSAJはトニー・ザイラーはアマ規定の「スポーツで得た名声を金にかえてはならない」とする条項に触れると結論づけたのである。世界一のスキーヤーと滑るという千載一遇のチャンスを日本のアルペンレース界は放棄したのである。当時トニーは既に2本の映画に出演し、その映画「黒い稲妻」「大回転」は世界中でヒットし、3本目の映画「白銀は招くよ」を日本で撮影していた。

1959年12月10日 毎日グラフ
トニー。ザイラーは1957年突然日本を訪れたが、その後、約4年間、冬の間を日本で過ごした。しかし、SAJは日本のスキーヤーにトニーとの接触を禁じ、トニーと一緒に滑り、トニーと話をしたことのあるのは私を含めて、数人に過ぎない。 |
◆ザイラーは空前の人気を獲得していた
その日本での仕事の間に、トニーは1958年バドガスタインの世界選手権に出場、滑降、大回転に優勝、スラロームに2位(ヨセフ・リーダー1位、猪谷千春3位)となっているのである。
FISの解釈は「映画俳優のトニー・ザイラーが競技に出て来た」というもの。日本だけがザイラーはプロだと認定したのである。
ザイラーと日本選手との交流は完全に断たれたが、映画のスーパースター、ザイラーは空前の人気を獲得していた。「ザイラーが日本橋の高島屋に来る」「ザイラーが高島屋から銀座に来る」そうした情報が流されると付近の道路は、人、人、人にあふれ返った。
高島屋から銀座までの道路は全く身動きのできない状況になった。当時まだあった都電の線路は人に埋めつくされ、電車は全く走れない状況になった。私は当時、銀座一丁目にあった出版社に勤めていたのだが、その時の光景を今も忘れることはない。