【日本のスキーを語る 連載15 志賀仁郎(Shiga Zin)】
バインシュピールは日本人少年のスキーを基に生まれた理論
※連載15は、連載14からの続きとなります。

実業之日本社訪問後の銀座で |
◆基礎選とデモ選

奥様と愛犬と志賀さん |
16年続けられたデモンストレーター選考会が、基礎選とデモ選に分離された時、多くの人々は、この二つがどうこの先、進展して行くのだろうかの期待とわずかな懸念を持っていたに違いない。
1980年に第一回基礎スキー選手権大会が行われた年、1980年第16回と数えるはずのデモンストレーターは、基礎選上位の中から指導員、準指導員の資格を持った者が、そのままデモンストレーターと認定された。
SAJが掲げた2つの大会への分離の高邁な理想を掲げた、その目標の説明から考えれば、それはあまりにも安易な認定でなかったろうか。
競争として純粋に技術を比較し合う基礎スキー選手権とSAJスキー教程のモデルとなるスキーヤー、スキー教師達の範となる資質をデモンストレーターに求めるはずのデモンストレーター選考会が、別なものだとするSAJの考え方の証明にはなっていなかったのではなかろうか。このデモンストレーター認定の結果は何の説得力も持っていなかった。
◆様式美を競うスキーが復活
1982年、つぎの1983年イタリアのセクステンで開催される第12回のインタースキーのデモンストレーターを選ぶためのデモンストレーター選考会が第3回基礎選のあと八方尾根の咲花スキー場で行われた。16回で休止していたデモンストレーター選考会「第17回と数えられるはず」が復活したのである。
第3回基礎スキー選手権の男子上位51名と女子10名がこのデモンストレーター選考会の出場資格者となった。
「単なるスキーのうまさだけを競うのが基礎スキー選手権なら、このデモンストレーター選考会はそれとはまったく違った視点で指導者としての理解の深さ、表現力の確かさを見る選考会だ」とはSAJの幹部たちの説明。
デモンストレーターに要求される技術は基礎スキー選手権の中で採点される技術とは異質なものといった考え方であり、デモンストレーターは他の規範になり得る、人格的にも優れたスキー教師でなければならない。と言う思想であった。
咲花で採用された種目は、プルークボーゲン、シュテムターン、小回りA、小回りBの4種目。どの種目も当時の「全日本スキー教程」の正確な演技者を求めた種目であり、指導者として現場に立つ者にとって欠かせない技術である」と説明されていた。
正確に美しく、という日本の伝統を受けついた様式美を競うスキーが復活していた。ヨーロッパのスキー界が、1968年アスペンのインタースキー大会を機に、全く新しいスキー指導理論、技術論を競っていた、その時代、日本のスキー界は1955年(何と30年おくれて)のオーストリアスキー教程に準拠するスキー指導理論の忠実な具現者を求める選考会を行っていたのである。
◆2つの大会に分けた意味が明確になった
4種目の成績、さらにSAJの要求する資質、人格といったものを考慮したというデモンストレーター選考会は、20名のスキーヤーを選出して終了した。
1位、佐藤正明、2位佐藤正人、3位太谷陽一、以下相田芳男、工藤雅照、山田博幸、宮津久男の順となって、佐藤正人を除けば、全てベテランデモンストレーターと呼ばれる男たちのものとなった。
6位を占めた山田博幸は、小林平康とならぶデモンストレーターとして活躍してきた浦佐のエースだが、基礎スキー選手権は45位と低調だったが、このデモンストレーター選考会では6位とランクされるという結果になった。
技術を競う基礎選では、戦いそして勝ち残るという力を失っていると見られていたベテラン勢が、指導者としてまだまだ一流の評価を受ける立場にいることを山田は実証してみせたのである。
基礎スキー選手権に2位とその実力を高く評価された渡部三郎は、デモンストレーター選考会の順位では17位となり認定ギリギリのところに転落しているのである。
藤本ひきいる若いエース達は、佐藤正人、吉田幸一、星野正晴、細野博、高山重人、石井俊一、小熊恵一、紺野光弘、出倉義克といった新鮮な顔触れが入った。SAJが2つの大会に分けた意味が明確になり、デモンストレーターに新しい時代がおとずれていた。

アスペンのインタースキー
左側がクルッケンハウザー教授、右から2番目がフランツ・ホッピヒラー |
◆ク教授とホ教授に呼ばれてブンデスハイムに
このデモンストレーター選考会で選ばれた20名がセストのインタースキーの代表者となった。セストでの第12回インタースキーで何が起きたかは、この連載の7回に書いた。ここではセストの現場で何が起きたかは重複するので割愛する。
私はセストのあと、「オーストリアのサンクリストフに来い。」とステファン・クルッケンハウザー教授とフランツ・ホッピヒラー教授に呼ばれてワールドカップ取材の旅を中断して、ブンデスハイムをたずねた。
クルッケンハウザー教授は、会うなり「ジンあの日本の論文は間違っている。」と言い、「とにかく、聞いていて何をいいたいかがまったく見えなかった。帰ってきて、その論文を読んでも何のことやら判らなかったよ」と笑っていた。
ホッピヒラー教授は、その論文には触れず、雪上で展開されたデモンストレーションについて、まず「間違っている」と結論を語り、かなり突っ込んで、その間違いを指摘した。
「ペダルプッシングと言う動作はスキーの動きには何の可能性も持っていないよ」といった指摘であった。
その後で、クルッケンハウザー教授は私とホッピヒラー教授を、校内の映写室につれていった。3人だけでク教授の秘蔵の記録フイルムを見ることになった。
◆思わず声を上げてしまった驚くべき内容
50年ほど前、1951年から52年の冬に撮影された、そのフイルムは見事なものであった。保存状態が良かったため、鮮明な画像であった。
「アッ」私は思わず声を上げてしまった驚くべき内容だったのである。
1951年、オスロで開かれた冬季オリンピックに日本から出場する若き日の猪谷千春選手の滑りが克明に映されていた。
フリーで滑る流れる様なしなやかなスキー、そして旗門をセットして、そこを滑る猪谷、スムースに力強くさらに美しい滑りであった。
私は、少年時代の猪谷を知り、戦後日本に帰ってきた一家と親交があり、父親の猪谷六合雄さんの撮った猪谷少年のフイルムを見、そして自分でも猪谷選手をカメラで追っていた。しかし、このクルッケンハウザー教授の撮ったフイルムは、日本人の撮ったどのフイルム、どの映像よりはるかに高いレベルにあった。
そのフイルムが、6双旗を並べたストレートフラッシュのシーンを真正面から映したシーンで終った。猪谷選手は、その旗門を左右にスキーを走らせ見事に抜けていった。
「ダス・イスト・バインシュピール」、クルッケンハウザー教授がそうつぶやいて映写室を出て行った。ホッピヒラー教授と私は、しばらくその場を動くことができなかった。
◆見事と言ってこれ程美しいスキーを私は見たことがない
私は息をのむ思いでそのストレートフラッシュでのシーンを見守った。猪谷の上体は、正面を向いたまま左右にも上下にも動かない。その静止した状態の下で下肢がしなやかに左右に振り出され、6つの旗門をスムーズに通過していた。
見事と言ってこれ程美しいスキーを私は見たことがない。
のちにウェーデルンと呼ばれる技術になる原形が完璧な形でそこにあった。
クルッケンハウザー教授のうめくような「ダス・イスト・バインシュピール」 (Das ist Beinspiel が正確なドイツ語です)という声が、その時発せられたのだ。
◆ウェーデルンは世界のトップレーサーの中でも、ひとりしか出来なかった
1955年発刊の「オーストリアスキー教程」の序文にクルッケンハウザー教授は、「我々は世界のトップレーサーの技術を分析する中から、このバインシュピール技法と呼ぶ技術に到達した」と書いているのだが、私はその序文から、その世界のトップレーサーは当時のオーストリアの、オテマール・シュナイダーやノルウエーのスタイン・エリクソン等と思い浮かべていた。
私は、クルッケンハウザー教授に初めて猪谷のフイルムを見せられたその時、教授が私に何を語りたかったかを知った。
かなり前になるが、私はクルッケンハウザー教授からウェーデルンについてこんな話を聞いた記憶がある。「私たちがあの教程を作る作業を始めた頃、ウェーデルンは世界のトップレーサーの中でも、ひとりしか出来るものは居なかった。教程作成作業を進めるうちに数人が同じような動きをする様になった。そのうちのひとりは、教程のモデルになったフランツ・フルトナーだ。そして教程が発表される頃には20人から30人ウェーデルンを滑る教師たちが出てきて、さらに一年経ったらその数は一気に何千人かになったろう。そして年々、増えて、世界中に何十万人かのウェーデルン完成者がいる様になり、今ではスキーヤーのほとんどが、それを試みている。」と。
◆その最初のひとりが19歳の若き日本人選手だった
3人で猪谷千春の1952年1月に撮られた映画を見た時、私はその最初のひとりが当時19歳だった若き日の猪谷千春選手だったことを知った。
◆日本のスキーをどう評価するかに戸惑っている
クルッケンハウザー教授が何故、私をわざわざ呼んで、そのフイルムを見せたのか。ホッピヒラー教授と二人になって、わずかな会話が交わされた。
「日本はかってこんな素晴らしいレーサーを育て、ヨーロッパに刺激を与えた。そして戦後20年、30年、われわれオーストリアのスキーを研究し、1968年アスペン、1971年ガルミッシュと、われわれヨーロッパのスキー関係者を驚かせる成長を見せた。その日本が1979年蔵王で、それまでのインタースキー運動とは全く異質のインタースキーを開催、さらに今回のセストでは信じられない論文、信じられない指導法でわれわれヨーロッパのスキー関係者を失望させた。私たちは今、日本のスキーをどう評価するかに戸惑っているのだ。
ホッピヒラー教授は苦し気にそう私に語った。私は、その言葉を聞きながら、ヨーロッパのスキー先進国の人々の苦悩を、判ろうと努めた。そのセストの時から、ヨーロッパの国々からの日本へのメッセージは消えた。
セストのインタースキー以後、日本のスキー界への関心は、ただただ拡大し続けるスキーマーケットのみに注がれることになった。
◆日本ではスキーを何に使っているのか
ヨーロッパ、アメリカのスキー関連企業はどうすれば日本で自分たちの製品が売れるかに知恵をしぼっていた。「どうしてそんなにスキーが売れるのか」訳の判らない現象があった。
私は、その当時、「日本ではスキーを何に使っているのか」といった、からかい半分の質問を受けることがしばしばあった。
「東洋のネコ」と呼ばれ、世界中の人々の関心を集め1955年発刊の「オーストリアスキー教程」発想のもとになった猪谷千春を生み出した、遠い東洋の神秘なスキー国日本は、何にスキーが使われているのか訳の判らない神秘なマーケットになっていた。
◆バインシュピール技術は日本人少年のスキーを基に生まれた理論であったことを私に見せ語った理由は?
2人の教授が私を呼んで秘蔵のフイルムを、何故見せたのか。
クルッケンハウザー教授は、「日本人は、あれだけ素晴らしい理論を持ち、あれだけ素晴らしい選手をこの世界に送った」その事実を私に確認させるためにわざわざ時間をさいた。1955年発刊され、世界中に、スキーバイフルとさえ支持された、「バインシュピール技術、それは日本のひとりの少年のスキーを基に生まれた理論であった」そのことを私に見せ語り、日本人がその当時、世界の頂点にあったことを知らせるために、私にわざわざ、サンクリストフまで呼んで見せたそのことを、お前は正確に日本のスキー界に伝えよ、という意識、そしてホッピヒラー教授は、その日本が何故、セストであれ程、馬鹿げた理論、技術を発表したのかに対する疑問を提示してみせた。と私は受け取った。1968年アスペンのインタースキーで私が発表したレポートが2人の教授に、日本人でもっとも信頼できるジャーナリスト、日本でもっとも信頼されているであろう、スキー指導、スキー技術論の発言者として私を選んだと言うことを、その時、ひしひしと身に感じていた。
[2005年03月07日付 上田英之]
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