【日本のスキーを語る 連載31 志賀仁郎(Shiga Zin)】
私とヨット 壮大な自慢話
※連載31は、単独で志賀さんとヨットについての話となります

第44回技術選手権大会 表彰式・パーティ会場にて |
◆私のヨットに関する思い出を書くことは壮大な自慢話
この冬のスキー界の重要行事は、隣国、韓国ピョンチャングン郡ヨンピョンスキー場で開催された第18回インタースキーであろう。そして一般のスキーファンにとっては、苗場で開かれた第44回全日本スキー技術選であったに違いない。
私は今回その二つの行事についての私なりの感想を書くつもりで居たのだが、編集責任者から、「その前にお前のヨットに関するレポートを出せ」と強い要請があった。「スキーの志賀さんが何でヨットなのか」と不思議に思う人がたくさんいて、どうしてもそれを解明したい,、というのである。
何回か前に私は子供の頃からヨットをやっていたということは書いたのだが、私のヨットに関する思い出を書くことは壮大な自慢話になってしまうので恥ずかしいのだが、再三再四の要請に折れて簡略に書いておくことにした。

アサヒグラフ1981年9月25日号アドミラルズカップ’81 志賀さんのレポート
今回このレースに参加したのは16カ国48隻と前回より3カ国少ないが、そのいずれもが
優勝を狙える精鋭艇ばかりで伯仲したレースが展開された |

もっとも緊張する一瞬はマーク廻航でクルー全員の息の合った動きが要求される
このようなアングルで写真を撮ることができるのは志賀さんならでは |
 |
◆ヨットの専門誌に多くのレポートを書き、写真を提供していた
私は少年時代から、冬はスキー、夏はヨットという生活を続け、大人になった1964年の東京オリンピックより前に小型艇(一般に小型の1人か2人乗りのヨットをディンギーと呼ぶ)の全日本選手権大会に2回優勝し、日本のヨット協会が主催した、ワンオブアカインドレース(One of a kind Race)という日本中のチャンピオン艇を集めて行われたレースにも優勝していた。そして当時あったヨットの専門誌に多くのレポートを書き、写真を提供していた。スキーについて書くようになるより4、5年は早いはずである。
1964年、東京オリンピックのヨットレースを取材して、世界一のヨット写真家と認められてヨットのジャーナリストとなった事は前にも書いているので省略するが、その当時日本にたったひとつあったヨット専門誌”舵”に日本のクルーザーという大きな連載記事を書いていた。「日本人の乗るクルーザーのオーナーとそのフネとその航海」を紹介するとする記事であった。
◆私の乗る取材艇が行方不明に
1962年の11月、その連載のための取材にモーターボートで、初島、利島レースを追っていた時、突然天候が悪化して、(今でもこの日の突然の気象変化を日本における気象学上の特異日としている。)私の乗る取材艇が、行方不明という事態となった。
次の日の新聞は全てその事故を報じ、私たちは各紙に顔写真入で遭難と報じられた。あの嵐の中であのモーターボートが、生存している筈はないとする海上保安庁の判断が、そのボートは沈没し、全員死亡したに違いないとしたために報道されたのだが、私はどっこいその海の中で生きていた。
すさまじい嵐であった。その嵐の中で私たちの乗るモーターボートは、エンジンが停止航行不能となった。波と風の中で入ってくる海水をアキカンひとつでかい出し続け、沈没をまぬがれたのである。約30時間海水と死闘を続け、海がおさまった時、取材で上空を飛んでいた新聞社の飛行機に偶発見され、帰還することができた。
◆よかったなジンさん、原稿の〆切はあと2時間
伊豆の下田港の保安庁に運ばれた時、何と朝日新聞は「よかったなジンさん、原稿の〆切はあと2時間、バイク便をそちらに向かわせたから、すぐに書いておいてくれ」と非情な要求をして来た。私は保安庁の机を借りて遭難から救助されるまでのレポートを書いた。
その記事の終わり頃に「この嵐の中で出場していたヨットの何隻かが、無事であったか想像することができない。キット何隻かは、遭難しているに違いない」と書いた。そのレポートを読んだ、何組かの家族が「うちの息子が帰ってこない」「うちのフネがまだ帰航していない」とする電話が海上保安庁に寄せられ、大捜索が始まり、早稲田の早風、慶応のミヤの2隻の行方不明、そしてノブチャンの1名の落水事故が判明した。
そのレース、初島、利島レースでは、二つの大学のヨットが消え、13名の若いヨットマンが死亡している。当時、その事故はヨット競技で起きた史上最大の悲劇と世界中に報道された。
◆「朝日ジャーナル」の「日本の若者」という連載
その初島、利島レース事件の直後、朝日新聞社から、その秋、新しい新週刊誌「朝日ジャーナル」に作家の武田泰淳さんが、「日本の若者についての連載を始める。それにお前を扱うことになったから、武田さんに会え」と言って来た。
そこで私は、当時、数寄屋橋にあった朝日新聞社の最上階の超一流のレストラン、「アラスカ」で食事をとりながら武田さんの取材を受けていた。
武田さんは、海での遭難事故についての質問を繰り返した。私はその時「あと6時間発見されなければこの人とこの人は死亡するだろう、さらに救助が遅れたら、次にこの人とこの人が死ぬ、そうしたら遺族の人たちにその遺体をどうやって海に浮かべておいてやろうかを考え続けていた」という話をした。
その話の途中、武田さんが、突然「志賀君、ところで君は何番目に死ぬと考えていたのかね。」と聞いた。その時私はハッと気が付き「あれ!! 僕は自分の死ぬことを考えていなかった。」と答えた。すると、武田さんはびっくりした表情を見せて、怒り始めた。「人間は死に直面したとき、その死の恐怖からは逃れられないものだ、何だお前は!!」ということだった。
だけど私は、その質問を受けるときまで自分の死を考えていなかったのである。「朝日ジャーナル」の「日本の若者」という武田さんの連載の最初の頁には、「一年中夏はヨット、冬はスキーと遊ぶことばかり考えている若者がいる」という書き出しで私のことが紹介されていた。全体にあまり好意的には書かれていなかった。何人かの友人知人から電話を受けた。「志賀さんはまったく仕事をしないんですってね」といった問い合わせであった。
私は当時、かなりハードな仕事をこなしていた筈なのだが。
◆竜王にはヨットレースの鬼神が乗っている
その死のレースを生き延びた強運をかって、あるオーナーが自分の持つクルーザーに乗ってくれと言って来た。そして私は、クルーザーのレース、外洋レースに出場することになった。竜王丸というそのフネは当時としては最大のフネであった。初めての外洋レース、鳥羽レース(三重県の鳥羽から、三浦半島の突端城ヶ島までのワンオーバーナイトのレース。当時は日本最大最長のレースだった)に竜王丸は優勝、私の外洋レースの歴史が開かれた。オーナーは喜んですぐ次のフネを造った。そして私はその新艇のスキッパーに指名された。アメリカ人オーリン・スティーブンス設計の36フィート竜王は、私と共に日本の外洋レースを勝ち続けた。
その当時、ヨット専門誌「舵」は、竜王にはヨットレースの鬼神が乗っていると書いた。1960年代の後半から1970年代にかけて私の乗る竜王は日本の外洋レースに勝ち続け、その当時、新しく開発された新レース三宅島レース、八丈レース、沖縄レースといった超大なレースの全てにも勝って、日本一の外洋レーサーとなった。日本のヨット乗りにとって夢のまた夢といえる鳥羽レースに竜王丸、竜王、ニンバス(私とスキーの友人 谷善樹君とで持った私たちのフネ)で3回勝っているのである。
◆日本のレースから世界のレースへ
私は日本の外洋レースに26回の優勝を経験しているが、私の記録に迫るのは、私が居なくなってから11回勝った人、5回勝った人しかいないのである。
私は日本で勝ちたいレースがなくなって1973年から海外のレースに目をつけ、世界最高のレース、アドミラルズカップ、そして当時世界最長レース、トランスカップレースなどに取材の場を広げ、多くのレポートを日本のメディアに送っている。
1977年、アドミラルズカップに日本が出場を決めた時、その旗艦といえる都島にスキッパーとして乗れという話があり、日本のヨット界の重鎮たち(その中には、石原慎太郎、裕次郎の兄弟もいた。)に、口説かれて、そのレースに出場したことがあるのだが、そのレースは、残念ながら惨敗ということになった。
世界の頂点は、まだまだ遠いと知らされるレースであった。

当時、ヨットレースに関する執筆と写真が掲載された朝日グラフ |
◆「スキーの志賀さんが何でヨットを」とする疑問は
そのアドミラルズカップ参戦のあと、持病の糖尿病が悪化し、真夜中の仮眠中に波の変化や風の触れに敏感に反応できない自分に気づいた。 更に胃がん、脳梗塞と続き、ヨットレーサーとしてレースの現場からは離れざるを得なくなったのである。
レースへの出場をあきらめた私は、もっぱら世界のレース、ワントンワールド、ハーフトン世界選手権レース、そしてオリンピック、世界選手権と、世界中のレースを追って走りまわった。
アサヒグラフ、毎日グラフ、そしてヨットの専門誌・舵、オーシャンライフで私のレポートを目にした読者は多いと思われる。
日本のヨットブームは1980年に入ると急速に縮まって、私の仕事はなくなり、ヨットレースを扱うマスコミも消えてしまった。私が現役として走りまわった日本の外洋レースもわずか2つを残して消え、そのレースを主催していた団体も今はない。
私は、今、20年30年前を回想することにしか楽しみを見出すことはない。
「スキーの志賀さんが何でヨットを」とする疑問はヨットの世界の人々にとっても「ヨットレースの神様といえる志賀さんがスキーにも何か書いているよ」となるはずなのである。

第12回インスブルック冬季五輪大会 男子滑降優勝 フランツ・クラマー
前号で撮影の経緯を説明したが、1600ミリという超大のレンズを使用して真正面から撮影した
私の自信作。
フランツも「自分のレース人生で一番気に入っている写真」と言っている。
|
以上
[07.4.27付 上田英之] |