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第43話:日本の新技法 曲進系はどこに行ったのか〜パンチョターン
第30話:第12回インスブルック冬季五輪大会 男子滑降優勝 フランツ・クラマー
第13話:アンゲラルアルム ホテル
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横浜みなとみらいのクイーンズイースト魚力にて  (2007年8月撮影 上田)

◆フランツ・クラマー、オーストリアスキーの危機を救った新たな英雄

 アタンシオン シュルブプレ アタンシオン シルブプレ、アテンション プリーズ、アハトン ビッテ、斜面に絶叫が流れた。
  各国のアナウンサー達が伝えたのは、今16番の選手が、それまでの15人のタイムを抜くタイムを第2中間地点で出した、ということだった。私たちは仕舞いはじめたカメラを出しなおして、コースの一点に焦点を合わせた。黒い閃光が目の前を横ぎって行った。
  ”ノイエ ベスト”若いオーストリアの選手が、それまで1位ルッシー、2位コロンバン、3位ジム・ハンターと並んでいたその全てのタイムを破ってゴールへ飛び込んだのである。
  誰もが予測し得なかった事態であった。


フランツ・クラマー

◆フランツはこのシュラドミングの生まれであった

 はじめてワールドカップのレースが行われたシュラドミングは歴史的古都のザルツブルグの南にある。4年あるいは8年後に世界選手権大会を開く準備を急いでいた。このスキー場は、当時あまり知名度はなく、このワールドカップはコースの見当、大会運営能力を探る目的にためにこの日この種目を開催したのである。多くの観衆がコースのまわりを囲んでいた。その大観衆が一気にコース脇の急斜面を転がり落ちていった。口々に「フランツ」「フランツ」と絶叫していた。そうフランツはこのシュラドミングの生まれであった。
  私たちはコースの中を両手にカメラを持ち、横滑りでゴール前の恐怖の急斜面をずり落ちて行った。ゴール付近は、ゴール広場を破って侵入した地元のファンで埋めつくされていた。私はフランツに近づくことをあきらめ、レンズを再び長い300ミリにかえてフランツをカメラにとらえることができた。
  フランツは肩車の上で大声で叫んでいた。何を言っているのか聞き取れなかった。その人々の輪の外で、1位から3位までに並んでいたルッシー、コロンバン、ハンターが悔しそうにその騒ぎを見ていた。


フランツ・クラマー

◆フランツはその生まれ持った幸運に支えられてワールド・カップを戦い続けた

 この騒動のために競技は約一時間中断された。私は40年を越える取材経験の中でこれほどの気狂いじみた場面をみたことはない。
  私はその光景を眺めながら「何とこの男は幸運な男なんだろう。」と思っていた。自分の生まれ故郷で自らの生涯の初優勝をかざった男をそう感じるのは当たり前のことだろう。フランツはその生まれ持った幸運に支えられてワールド・カップを戦い続けた。次の年1974年には7回の滑降に1位1回、2位3回、3位1回、5位1回と、コロンバンと優勝を争った。続く1975年シーズンには、9回スケジュールされた滑降に8回優勝の快挙を上げて史上最強のダウンヒラーの名称を手にした。
  その怪物にしてもオリンピックは特別なものであったらしい。1976年オーストリアのインスブルックで開かれたオリンピックで、彼はゴールドメダルの絶対的な本命としてレースに挑戦することになった。
 フランツにかかるプレッシャーはどれ程大きいものだったろうか。彼は、そのオリンピックに準備された金色の美しいダウンヒル用のスーツを着ることを拒否して着なれた古い黄色のスーツを着てコースに立った。

◆明日、トニー・スピースとジャーナリストの代表のジン・シガがコースの下見

 その年のインスブルックは雪不足、大会関係者は何百台かのダンプカーを使って近くの氷河から雪を運びコースを作った。そして水を撒いて固め、堅いアイスバーンのコースを準備した。その水のコースには誰も立ち入ることは許されなかった。オリンピック委員会は、大会本番にも誰もコースには入れない、とジャーナリスト達に宣言してきた。当然その要求は受け入れられないとするジャーナリスト協会との間で激しい議論がおきた。ジャーナリスト協会の親分セルジュ・ラングと競技委員長トニースピースの話し合いで「明日、トニー・スピースとジャーナリストの代表のジン・シガがコースの下見をして、カメラマンが入れる場所を選ぶとする妥協案が成立した。その妥協案はプレスセンターで話し合われ、「ジンが下見をするならば」という結論に達した。私はその当時、世界一のスキー写真家として皆に認められてた。
 次の日トニーと私は堅いコースを下見してまわり、たった一箇所、撮影スポットを見つけて、その場所を赤いテープで区切って帰ってきた。

◆ジンが選んで来た場所なら、それに従うよ

 ジャーナリスト達は「ジンが選んで来た場所なら、それに従うよ」と納得してくれた。次の日、レース本番前に私がその場所に行くと300人程のカメラマン達がそこでカメラを開いていた。集まったカメラマン達が歓声を上げて迎えてくれた。「お前のレンズは200ミリだから、もう少し上に上がったほうがいいぞ」、「400じゃその位置は近すぎる。もう何メートルか下がって位置をとれ」といった助言をして皆がいい仕事ができるように調整した。誰もが、「そうか」と納得してくれた。
レースがスタートする直前になって私はその場をはなれて観衆の後ろに立った。「ジンどこに行くのか」の声が聞えていた。私が、カメラマン達の現場をはなれて大観衆の後ろに立ったとき、カメラマン達はZINは俺たちと違う写真を撮るんだろうと納得してしまった。私はその朝、ニコンサービスの人に頼んでその場所に800ミリという巨大なレンズを運び上げてもらっていたのである。

◆それまで、誰も試みたことのないアングル、そして迫力であった

 レースがスタートし、ひとりのレーサーが滑り過ぎる度にカメラマン席から歓声が上がり、何人かが私に向かって手を振った。皆私の指定した場所に満足していた。
 私はその場所から離れて、皆が撮るジャンプを真正面から撮ることに成功した。このオリンピックの滑降の写真は全てが同じジャンプのフォームを横から撮ったものとなった。しかしそれを皆が納得していた。
 次の日の夕方、ニコンサービスセンターを多くのカメラマンが訪ねて来た。その当時ニコンは、私の撮ったフイルムをヘリコプターでローザンヌへ送り、現像をして次の日には全フイルムを明かり箱に入れて、夕刻には展示していた。歓声があがり、ため息がもれた。それまで、誰も試みたことのないアングル、そして迫力であった。フランツは、その後毎日グラフの大きな見開きのその写真をひきのばして自宅の壁にかざってある。
 フランツは、今でも、あの一枚の写真があれば、子供たちに「俺がどんな男だったのか」を教えることができる、となつかしそうに私に語りかけた。


第12回インスブルック冬季五輪大会 男子滑降優勝 フランツ・クラマー
オーストリア国民の誰もが期待し、ジャーナリストのすべてがその勝利を予想したクラマーの
滑降は、 ルッシに前半リードをゆるすというきわどい勝利ではあった。
しかしその圧倒的なパワーはゴールドメダリストとしての貫禄十分である。
オーストリアの生んだ新しい英雄である。 写真と文 志賀仁郎 毎日グラフ1976.3.14

※掲載している写真は、「アルペン競技 世界のトップレーサーのテクニッ 志賀仁郎」、「SKI WORLD CUPスキーワールドカップのすべて ZIN SHIGA」(ベースボールマガジン社)に掲載されたものを使用しています。

[2009.02.02付 上田英之]]

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