【日本のスキーを語る 連載45 志賀仁郎(Shiga Zin)】
日本スキー教程はどうあったらいいのか(その1)

第45回技術選の閉会式にて 左から井山選手、瀬尾常務理事、松沢選手、志賀さん |
◆生涯の仕事となったこの連載
私は、この連載を引受けた時、10回か長くても1年間と考えていた。ところが今、既に4年目に入っている。書き始めてみれば、書いておきたいことが次から次へと出てきて、今や45回、もうすぐ50回になる。今では私にとって生涯の仕事になっていると感じている。次回何を書こうかとする思いよりも、今何を書いて置かなければ、とする思いの方が深くなっているのである。
私の書いたレポートに多くの意見が寄せられている。そのほとんどは肯定的な意見だが、中には「あんな事、書いて大丈夫?」といった心配する意見もある。
ただうれしい事に、スキーに関係のないと思われる人達からも、「あれは面白いですね」といった意見が聞こえてくることであろう。
私の通っているスポーツクラブでも、知らない人から声をかけられる。それだけ関心が高いということで、気を引き締めて書かなければと思っている。
◆教程とは何か、そして教程はどう作られたらいいのかを問い直す
その私の耳に噂が入ってきた。「平川さんが、新しいスキー教程作りに入り、スキージャーナル社と新しい教程の写真撮影を終えている。」というのである。
今私は、教程とは何か、そして教程はどう作られたらいいのかを問い直している。教程は今の日本のスキーを見据え、将来のスキーの方向、流れを見定める、かなり大きな役割を担っている書物だと考えている。今のスキーを見つめ、将来のスキーをどう導いて行くかが、教程には示されていなければならない。
そのためには、日本のスキー界の英知を集め、スキーに無縁な人々を含めて、広く意見を聞き、誰もが納得できる作業が必要である。

苗場プリンスホテル8階から観戦中の志賀さん |
◆ 私は学校の教科書を作る仕事をしていた
私は若い頃、教科書会社に奉職して、少、中学校の教科書を作る仕事をしていた。その経験は私の生涯にとって貴重なものとなっている。
スキー教程を作るという作業は、教科書を作る作業と同じ様なものと私は考えている。教科書は、どれだけ偉い先生が書くとしても、その個人、その出版社の私的な出版物ではない。文科省は、広く内外の教育指導者、学者を集めた中央教育審議会に答申を求めて日本の教育の方向を決めることとなる。それが学習指導要領なのである。その学習指導要領に従って各教科書会社は著者を選び、その要領に準拠した教科書を作り、文科省のきびしい検定を受け、それに合格して、初めて教科書を発行することができる。更に、その指導要領準拠の教科書は、全国の教師たちの目で審査されて、それぞれの学校が選んだ教科書が生徒たちの手に渡るのである。
何故これほどの過程が必要なのか、それは「将来の日本を担う子供たちに間違った事を教えてはならない」とする思いがそこにあるからなのである。
全日本スキー教程も将来の日本のスキーをどうするのか、といった視点から慎重に作らなければならない。全日本スキー教程は、ひとりの意見、ひとつの出版社の思惑で作られてはならないはずである。

久しぶりにNikonのカメラを手にする志賀さん |
◆ オーストリアスキーの発展と進化に学ぶ
"オーストリアスキー教程の作成の過程"
日本のスキー界が長い間、オーストリアスキーに傾倒し、信奉して来た事実は、日本人であれば誰にでも記憶していることと思う。
日本は、ことスキーに関しては、オーストリアの属国とさえいわれる国であった。1955年発表されたオーストリアスキー教程は、その後、数10年にわたって世界のスキー教程のお手本として、スキーのバイブルとまで呼ばれたのであるが、その教程の作成の作業には、オーストリアスキー界の英知が集められているのである。前にも書いたが1952年のオスロオリンピックに参加する日本のエース猪谷千春さんの技法を分析し、作成された教程の作業には、当時サン・クリストフのブンデスハイムの技術主任をつとめていた、シュルンスの名教師、フランツ・フルトナー、サン・アントンのスキー学校のルディ・マット、当時世界の頂点にあったスラロームの名手アントン・ゼーロスといった人々が、その教程作業に参画している。オーストリアは、そうしたオーストリアの全ての研究者の総意として猪谷君の技法からバインシュピールと呼ぶ技法を定義づけて、オーストリア技法を発表しているのである。
◆新しい理論に追従しなかった日本
日本のスキー界がただひたすらにオーストリアスキーを信じていた時代、それは1968年のオーストリアがアスペンインタースキーで発表した新しい指導理論にも追従しなければならなかった筈。しかし、その時日本のスキー界はそれを全く無視して、それまでの古いオーストリアスキーからの脱皮をしていない。
その当時1968年のオーストリアの大転換には、ルディ・マット、アントン・ゼーロスらに加えて、トニー・ザイラー、ヨセフ・リーダーといった世界のトップスキーヤー達が意見を求められているのである。
それは、その当時日本のスキー指導のトップにあった人々の不勉強、無知が招いた結果であった。
オーストリアの大変化にもかかわらす、SAJの指導的な立場にあった大熊勝朗さんは「オーストリアスキーは一言半句も変わっていない」と宣言したのである。日本のスキー界が今世界から大きく後れている原因の第一はそこにある。

1971年発刊された新オーストリア・スキー教程
表紙は前年のヴェーレンテクニックの分解写真
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◆1955年教程が内在していた2つの大きな過ちの指摘
1970年オーストリアは、ヴェーレン・テクニックと呼ぶ沈み込み技法を発表、1971年には新しいスキー教程を発刊した。そのオーストリアスキー教程は福岡孝行さんの名訳で日本語版(実業の日本社発行)が作られたが、日本のスキー界はその新教程にも何の反応も見せていない。
福岡孝行さんは、その翻訳本の最後にオーストリアスキーの大きな変化に触れて、長文のレポートを書いている。そこには、1955年教程が内在していた2つの大きな過ちを指摘し、それがどのように解消され、どの様な新提案がなされているかについて解説している。しかし大熊さん達はそうした事実を完全に無視したのである。当時日本のスキー界の頂点にあった大熊勝朗さんの過ちは大きい。

”スキーはパラレルから” 猪谷六合雄
この本が1958年の暮に発表されたことにただ驚くしかない。
「シュテムシュブングはどこまで習熟してもパラレルにはならない。
パラレル・クリスチャニアは初めからパラレルに導入される
指導法によれば容易に身につけることができる。」
その主張は、見事という言葉以外に送る言葉は見当たらない。
1955年に発表された、旧オーストリア教程は、
スキーのバイブルとまで呼ばれ世界中に普及していたが、
そのバイブルにあえて挑戦した論文であった。 |

『世界のスキー』
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◆「スキーはパラレルから」「世界のスキー」の2つのレポート
当時日本のスキー界には、猪谷千春選手の父親猪谷六合雄さんが、オーストリアスキーの過ちを指摘して、「スキーはパラレルから」と題する著書を発表している。何と1958年のことなのである。そして1968年のアスペンにおけるオーストリアスキーの大転換に関して私のレポート「世界のスキー」が発売されたのだが、その2つのレポートはオーストリアスキーの総本山サン・クリストフで世界のスキーの法王と呼ばれたステファン・クルッケンハウザー教授に絶賛され、世界各国の指導者に届けられた。というのに日本だけその2つのレポートを無視したのである。
何故か!! 私は今になってようやくその謎に気がついたのだが、猪谷六合雄さんの論文には大熊さんにとって自分の父親である六合雄さんへの反発があったと思われるし、私のレポートに対しては、「何だこの若僧は」といった強い反発の意識があったのだろうと思う。
日本のスキーは10年20年の後れをとることになった。
◆日本のスキーヤー達がどれ程、新しい技法に憧れていたか
1970年、オーストリアはサン・クリストフに世界中のスキー指導者を集めてヴェーレン・テクニックを発表した。その発表は日本にもなじみ深い、ミッシェル・フルトナー(フランツの息子)、バルトル・ノイマイヤー、フランツ・ラウター、ルッギー・シャラーといった人々が立ち合っている。その日から世界中のスキー国で沈み込み技法への研究が始まった。だが、日本ではそれより早い1968年から、熊の湯のパンチョこと佐藤勝俊君の深雪の技法、悪雪の技法が研究されていたのである。
パンチョターンの研究は、全く新しいターンの技法として日本のスキー界の中に浸透していった。
サン・クリストフでのヴェーレン・テクニックの発表に立ち会った私が平沢文雄に送った手紙は、日本の沈み込み技法の研究を一気に加速させることになった。
その春、私はヨーロッパのワールドカップ取材を終えて帰国し、すぐに浦佐を訪れた。そこで私は驚くべきシーンを目撃した。浦佐の斜面にサン・クリストフのブンデスハイム横に造られた段々畠と同様の斜面が作られ、その斜面に浦佐の精鋭たちが挑戦していたのである。平川仁彦、関健太郎をはじめとした浦佐の誇る名スキーヤーたちが、ヴェーレン・テクニックの習得に没頭していたのである。
その後私は浦佐からすぐにデモンストレーター選考会の行われる八方尾根を訪れた。そこには、浦佐で見た光景よりも更に驚くべき状況を見た。八方のコブの斜面でデモンストレーター選考会に出場するであろう名手たちが沈み込みのターンを練習していたのである。日本のスキーヤー達がどれ程、新しい技法に憧れていたのかが判る。
※連載46話につづく
[08.06.01付 上田英之]] |