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第43話:日本の新技法 曲進系はどこに行ったのか~パンチョターン
第30話:第12回インスブルック冬季五輪大会 男子滑降優勝 フランツ・クラマー
第13話:アンゲラルアルム ホテル
スペーサー
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スペーサー

横浜みなとみらいのクイーンズイースト魚力にて  (2007年8月日撮影 上田)

◆東洋で初めて開催された、サッポロ冬季オリンピック

 1972年、東洋で初めて開催された、サッポロ冬季オリンピックは、ジャンプ競技とアルペン競技に人気が集中していた。
 笠谷、青地、紺野選手らが大活躍して、日本のお家芸となったジャンプは当然だが、日本人にメダルの取れるはずのないアルペン競技が何故人気があったのだろうか。それは1964年コルチナオリンピック(イタリア)で三冠王トニーザイラー(オーストリア)とスラロームに金メダルを争った猪谷千春選手の記憶がまだ日本人の心の中に浸透していたからに違いない。日本人は第2の猪谷の出現を夢見ていたのである。


フェルナンデス・オチョア

◆2番フェルナンデス・オチョア スペイン

  その男子スラロームはオリンピックの最終日の唯ひとつの種目として行われた。「今日、この種目をみなければ、もうオリンピックは見られない」といった気持ちになっていたファンは多かったと思われた。
 午前中に行われたスラロームのスタート順アナウンスされた。2番フェルナンデス・オチョア スペイン。オコワと聞えた。場内が一旦静かになってからザワついてきた。「誰だ、だれだ」という声が伝わってきた。選手たちと一緒にコース・インスペクションをしていた私のところに朝日、毎日の記者やカメラマンたちが集まってきた。
 「わるい、わるい。私はパコを皆さんに紹介していなかった。パコはスペイン語でチビという意味で、少年時代からフェルナンデスとは呼ばれていない。パコは今日初めて第一シードに入った若者だよ。スペインの大金持ちなんですよ。彼が今日どんなレースをするかがちょっと気にかかっているんです。とにかくすごく楽しく明るいヤツです。」とパコの紹介をした。


フェルナンデス・オチョア

◆パコが来る。すごい気迫が感じられ、そのままゴールに飛び込んだ

 寒いさむい朝だった。1番が滑って57秒30、このタイムはかなりいいところにいるぞと思った。ところが、続いて2番のパコが来る。すごい気迫が感じられ、そのままゴールに飛び込んだ。タイムは55秒33、何とダビットのタイムを1秒97も抜いている。
 コース周辺のザワメキは一気に上昇した。15番までの第一シードが終わって、パコのタイムを誰も越えていない。1位オチョア55秒33、2位J・N・オージェ(フランス)55秒91、3位ヂュビラー(フランス)55秒92、4位シュマルツェル(イタリア)56秒11、そして本命のトエニ(イタリア)は56秒64の8位、トップのオチョアから1秒81差となった。はじめて第一シードで滑ったパコのタイムに誰もが頭をかしげていた。「何かの間違いだろう」そういう雰囲気が感じられた。だが電光計時の順位は動かなかった。


気楽にラップをとったオチョア

激しいスキーで一本目2位のオージェ

◆スペインの歴史に初めて記録されるゴールドメダル

  午後、2本目のインスペクションは、ジャン・ノエル・オージェ、グスタボ・トエニ、ローランド・トエニの周辺にカメラマン達が集まっていた。オージェ、トエニ、デュビラーの誰か勝つはずと思っていた様だ。そして陽気なパコにもカメラを向けるカメラマン達がいた。
  パコと一緒にコースにいた私に大杖正彦選手が近づいて来て、「このままパコが勝つかも知れませんよ」をささやいた。初めての第一シード、その15人の中でトップに立ったパコは、その事実を何のプレッシャーにも感じない、いつもの陽気なパコであったろう。
  2本目のグスタボ・トエニ(イタリア)アンリ・デュビラー(フランス)、オージェの滑りには起死回生を追い鬼気せまるもの。
  G・トエニが1秒31の(1本目8位)の大差をひっくり返してトップに立った。それに続けとロダンド・トエニが0秒59とつめて好タイムを出して、イタリアの2人が1位、2位と並び3位にアンリ・デュビラーと当時の実力者が顔を揃えたのである。そのアナウンスを聞きながらもパコは陽気にふるまっていた。
  パコのスタートは第一シードの最終ランナー。素晴らしいスピード、物おじしないフォームで滑ってくる。私は2本目にはゴールに戻ってパコを待った。何の不安も感じさせない速さでゴールへ飛び込んだ。「ノイエベストツァイト」とドイツ語でアナウンスの中にパコが飛び込んできた。スペインの歴史に初めて記録されるゴールドメダルであった。
  パコはゴールへ飛び込んだ瞬間、ジャーナリストの席に私を見つけ、すぐに私に抱きついた。「ZINやったぞ」と叫びながら。


おどけるオチョア



グスタボ・トエニの素晴らしい2本目


1972年サッポロオリンピック男子スラローム公式記録による(1位の合計タイムが合わないが…)
    1ST.RUN TIME(POS) 2ND.RUN TOME(POS) TOTAL TIME(POS)
(パコ)フェルナンデス・オチョア ESP
55.33
(1)
+-0
53.91
(2)
+0.32
109.27
(1)
+-0
グスタボ・トエニ ITA
56.69
(8)
+1.36
53.59
(1)
+-0
110.28
(2)
1.01
ローランド・トエニ ITA
56.14
(5)
+0.18
54.16
(3)
+0.57
110.30
(3)
1.03
アンリ・デュビラール FRA
55.92
(3)
+0.59
54.53
(4)
+0.94
110.45
(4)
1.18
ジャン・ノエル・オージェ FRA
55.77
(2)
+0.44
54.74
(5)
+1.15
110.51
(5)
1.24
        タイム差     タイム差     タイム差

◆サッポロで起きた奇跡であった

  サッポロで起きた奇跡であった。「オリンピックには魔物が住んでいる」その魔物が「ちょっとイタズラ」をしたのだ。そんな言い伝えが、やっぱり札幌にもあったんだ。そう思わなければ説明のつかないパコの勝利であった。
  この日の朝まで誰がパコの勝利を予想したであろうか。300人を越える内外のジャーナリスト、カメラマンの中にも誰ひとりいなかった。
  パコのコーチとして、また自らも選手でもあったマーク・ガルシアでさえ、フランスやイタリア選手の名前を上げていたのである。
  パコはこの勝利によってスペインのスーパースターとなった。しかし、このパコの勝利は奇跡と呼ぶことすらためらわれる勝利だった。サッポロのシーズン、ワールドカップに指定されたスラローム8回にどのレースの10位以内にもフェルナンデス・オチョアの名前はない。そして続く1973年シーズンのワールドカップにも一度も顔をだしていない。生涯たった一度の第一シードで、生涯たった一度の勝利、それを奇跡と呼ぶ以外になんと呼んだらいいのだろうか。サッポロの時から2シーズンしてオチョアの名前はアルペン競技の世界から消えた。


リズムに乗ったオチョア


オチョアのゴール


(左)無念のデュビラール (中)苦悩するオージェ (右)放心のペンツ

◆リュッセルの技法アバルマン

  しかし、パコの奇跡の勝利が残したものは大きい。パコは、サッポロ以前から、フランスのパトリック・リュッセルの技法に傾倒、そのフォームを徹底的にトレースすることに日夜励んでいたのである。グルノーグル大学の教授ジョルジュ・ジュベールの理論の共同研究者リュッセルのスキーは当時としては極めて異端であった。美しい立ち上がり沈み込みでターンを生み出す従来からの技法にくらべると、パトリック・リュッセルの技法は低い姿勢から下肢を前方に放り出す、とても美しいものとは言えず、ダサイといていいものである。しかし、パトリックはその技法で多くの勝利を積み上げている。
  パコの勝利は改めてパトリック・リュッセルの技法の優位を実証し、スラロームの世界にリュッセルの技法アバルマンを認めさせたのである。


勝利を喜ぶオチョア

※掲載している写真は、「アルペン競技 世界のトップレーサーのテクニッ 志賀仁郎」、「SKI WORLD CUPスキーワールドカップのすべて ZIN SHIGA」(ベースボールマガジン社)に掲載されたものを使用しています。

[2009.02.02付 上田英之]

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