9
志賀仁郎 SigaZinのホームページへようこそ
 

■HOME
■NEWS
■連載
■Gallery

第43話:日本の新技法 曲進系はどこに行ったのか〜パンチョターン
第30話:第12回インスブルック冬季五輪大会 男子滑降優勝 フランツ・クラマー
第13話:アンゲラルアルム ホテル
スペーサー
ホーム > 連載 > 52話 
 
スペーサー

横浜みなとみらいのランドマークタワーの前で  (2007年8月日撮影 上田)

◆ベルンハルト・ルッシー、ロランド・コロンバン、スイスDHスペシャリストの誕生

 1972年、東洋で初めての冬季オリンピック札幌が開催される1971年シーズンのワールドカップ(1970年12月から71年6月まで)ひとりの若者が注目を集めていた。スイスのベルンハルト・ルッシーである。この長身でハンサムな若者は、その前年、イタリアのバルガルディナで開かれた1970年世界選手権大会に大方の予想をくつがえしてカール・シュランツ、アンリ・ヂュビラール(FRN)らに勝った新鋭であった。人々は「何故だ」とその勝利に首をかしげた。
  スイス人であり、当時世界ジャーナリスト協会の会長であった、セルジュ・ラングがその秘密を明かしてくれた。「スイスは選手強化の方針を変えたのさ」と言うのである。


ベルンハルト・ルッシー 1972年 ST.MORiTZ DH1位

◆新しい指導者を任命

  1966年、夏、南半球のチリのポルティヨでの世界選手権大会は、オーレ・ボネの率いるフランスの圧倒的な勝利となり、フランスと並ぶオーストリア、スイスは歴史的な惨敗となった。無残な敗北を喫した各国は、次へ向けて新しい指導者を求めていた。スイスはその人物としてアドルフ・オギーを任命し、オーストリアはフランツ・ホッピヒラー教授をその任につかせた。
  アドルフ・オギーは、その要請にこたえてチームの構成をがらりと変えた。ひとつのチームを2つに分断したのである。滑降の専門のチームと、技術系のスペシャリストの集団であった。滑降チームは徹底したスピードトレーニングを課したのである。それが70年に開花した。ダウンヒルスペシャリスト養成への成果が現れたのである。ルッシー、ロランド・コロンバンが70年世界選手権で1位2位の栄光をつかみとり、1972年のサッポロオリンピックでも金銀のメダルを獲得している。


ベルンハルト・ルッシー


ロランド・コロンバン

◆ルッシーは走り続けた

  その当時(1970年代)アルペン競技の世界には「滑降で速い選手は他の種目でも強い」とする想いが強く浸透していた。その時代にアドルフ・オギーは、滑降とスラロームは、それぞれ別な才能が要求されるスポーツだとして、スイスのナショナルチームをダウンヒルとスラロームに分けて別々なトレーニングを課していたのである。
  そのトレーニングの成果は、すぐ次のシーズンに現れ、ルッシーは1970年のバルガルディナの世界選手権大会で、先行していたカール・シュランツ、カール・コルディンのオーストリア勢にスタートナンバー15をつけた第一シードの最終走者から一気にトップに立った。その日がスイス滑降の夜明けとなった。その日以来ルッシーは走り続けた。多くのワールドカップに勝利を積み上げ、次のビックタイトル、サッポロでの金メダルの栄光につながるのである。長身でハンサムな若者はどのレースのゴールでも冷静な姿勢を崩すことなく、ジャーナリスト達に対応していた。クールで利発な王者であった。


ベルンハルト・ルッシー


ベルンハルト・ルッシー 1972年SAPPORO DH1位

◆二人目の滑降の王者コロンバン

 そのルッシーを追ってスイスに二人目の滑降の王者が生まれた。1970年バルガルデナ、1972年サッポロで1位のルッシーに続いて2位を占めたロランド・コロンバンである。
 コロンバンは続く1973年ワールドカップに、ルッシーと共に常にレースの頂点を走り続け、ダウンヒルスペシャリストとしての地位を確保して、ワールドカップの主役の座を占めた。そしてワールドカップの種目別の滑降1位となった。
 次の年、アルペン競技はスイスのサンモリッツで開かれることになっていた。コロンバンは、前のシーズンよりさらに速さ、強さを増して、このシーズンを独走していた。
 ワールドカップに指定されていた7つのレースに第2戦のガルミッシュに勝った以後、フランスのアボリア、スイスのウェンゲン、オーストリアのキッツビューエルとクラシックレースの全てに勝って、サンモリッツに挑んだのである。しかし、ロランドはこのサンモリッツで転倒。ビックタイトルの金メダルを手にすることなくこの世界から消えた。スイス国民の熱狂の中にいるはずの男がいなくなった。
 スイスの英雄となるはずの男が消えた時、その男の運命を悲しむ声はさして聞えて来なかった。何故か?、それはこの男のあまりにも傲慢な態度にスイス人ですら辟易していたからに違いない。ルッシーの冷静で謙虚な姿勢に憧れていたスイス人にとってコロンバンはあまりにも不遜であった。


ロランド・コロンバン

◆スポーツの指導者から国家の指導者へ

  ルッシー、コロンバンの後にもスイスチームに続々と滑降レースのスター達が生まれている。ルネ・ベルトー、フィリップ・ルー、ワルター・ベスティである。
 スイスチームの再生を託されたアドルフ・オギーは大きな成果を上げた。オギーはその後政界に進出し、何とスイスの大統領になっている。スポーツの指導者から国家の指導者大統領にまで上りつめた男はこのオギーしかいないと思う。

※掲載している写真は、「アルペン競技 世界のトップレーサーのテクニッ 志賀仁郎」、「SKI WORLD CUPスキーワールドカップのすべて ZIN SHIGA」(ベースボールマガジン社)に掲載されたものを使用しています。

[2009.02.02付 上田英之]

スペーサー
   
ホーム > 連載 >52話